Ready Skater Four「増殖しては分裂するスケートコミュニティ」【闇夜に暗躍する若者たち〜青年編『前編』〜】

Ready Skater Four「増殖しては分裂するスケートコミュニティ」【闇夜に暗躍する若者たち〜青年編『前編』〜】

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僕のスケボー遍歴を「Ready Skater」というエッセイにして、ノンフィクション8割、フィクション2割で小学生時代から振り返って書いてみたのでよろしければ読んでください。

30代〜40代の人には懐かしく感じる部分もあるかもしれません。

今回は「闇夜に暗躍する若者たち〜青年編『前編』〜」です。

それではどうぞお付き合いください。

 

前回までのお話し

 

 

社会人になった僕だけど・・・

僕は高校を卒業してすぐに就職した。

就職の理由は特にやりたいこともないし、大学に行く頭もなかったので自動的に就職となった。

今思うと過去の何度かの挫折から自分の人生に期待しなくなっていたのかもしれない。

 

そんな気持ちだから、自ずと就職活動にも力は入らず。

それに加え、いい会社がないだとか文句を言い出す始末。

卒業が間近になってもまだ進路が決まっていない状態となった。

それに困った母親が自分がパートで働いている電子部品の会社の専務に掛け合ってくれて、僕はなんとなくそのまま母親の命に従い、その会社の本社工場に就職することになった。

 

その職場の人達は、皆いい人達ばかりで、夏場はバーベキュー、冬場はスキーやスノーボードに行ったりで、僕もそれなりに楽しく過ごさせてもらっていた。

しかし、それらが僕の気持ちを心から満たしてくれるものではなかった。

次第に僕は、このままでいいのだとうか?と考えるようになり、果たして自分は一体何がやりたいんだろう?と自問自答するようになって行った。

 

地元仲間との付き合いは相変わらずで、バカやったりが楽しかったが、専門学校を3ヶ月で辞めた奴や、そもそも高校卒業時点で就職もせず、そのままプー太郎をしているような奴らの集まりだから、真剣に将来を見据えてる奴なんて皆無だった。

 

そのうち僕も地元連中のいい加減さに影響され、会社に行くのが嫌になってしまい、とうとう会社を辞めてしまった・・・

会社を辞めたことは暫く、母親には黙っていた。

しかし社内の集まりで母親が専務と顔を合わせた時に、僕が会社を辞めたことを知る事になる。

数ある親不孝の中でも、僕はこのことを未だに後悔している。

恥ずかしかったろうな母ちゃん・・・

僕はとうとう「ごめんよ」を言えずに、一昨年の夏、母ちゃんは天国に行ってしまった。

 

 

職を点々とし行き着いたアルバイト先で再びスケボーをやることに

その後、転職した携帯電話の販売会社も一年で辞めてしまった。

しかしこの会社で得たものがあった。

それは自分が何となくやってみたいことだった。

手先が器用だった僕は、お店のディスプレイを自主的に作るようになる。

パンフレットを切り貼りしては、パネルやチラシを作り、それをショーウィンドウに飾る。

店前のPOPなんかも手作りで工夫して作った。

それが意外にも社内で好評となった。

次第に僕はこういった仕事が職業としてあるのか調べるようになる。

それがパソコンを使ってデザインする仕事でグラフィックデザインだと解ったのはそれからすぐの事だった。

今思うと原体験の中にスケボーの裏面に描かれている奇抜なグラフィックだったり、中学生の時にベェヤンが見せてくれたスケボー雑誌の写真やフォント、デザインが僕の心の片隅に焼き付いていたのかもしれない。

あぁ〜こんな仕事してみたいなと思うようになった。

 

僕は会社を辞めた後、グラフィックデザインをやってみようと思い近所のパソコン教室に通い出した。

今では考えられないけど僕はパソコンの電源が何処にあるかさえ知らなかった。

そう・・・それは初めて原始人が火を見たかのごとく「うほっ」って感じです。

そして蓄えもなかった僕は、パソコン教室の月謝とパソコンを買う為の資金を稼ぐ為に、給料のいいパチンコ屋でアルバイトをすることになる。

 

僕はすぐにパチンコ屋の職場に溶け込んでいった。

初めに友達になったのが、2つ上のアルバイト、シマちゃんだ。

シマちゃんはパンクバンドに異常に詳しく、僕の知らないバンドや裏話なんかも良く知っていて、10代の頃はライブに行きまくっていたとう。

そしてパチスロをやらせたら右に出る者がいないほどうまかった。

みんなが銀行に金を下ろしに行くのに対し、シマちゃんは預けに行くほどだった。

そしてパチスロで稼いだ金でエスティマを買ってしまうほどのツワモノだ。

そして2人目は社員で主任のカワさんだ。

カワさんは僕の3つ上で他の社員さんと違ってアルバイトと仲のいい社員さんだった。

3人目は1つ下のアルバイト、ガイスだ。

ガイスは英語がペラペラで顔はイケメンだが性格は3枚目のオモロい奴だった。

4人目は奈良から上京してきたアルバイトのミナミだ。

ミナミは僕の2つ上で、ばぁちゃんが霊能者らしく、そのばぁちゃんから貰ったお守りを肌身離さず首から下げている奴だった。

 

次第に僕はこの4人とつるむようになる。

初めは仕事が終わった後、5人でパチスロを打ち、そのまま飲み屋になだれ込むというのがお決まりのコースだった。

そんな時、フッと僕がスケボーをやっていたという話しになる。

そしてカワさんとガイスはスノーボードのオフトレでロングボードをやっているというので、それじゃ今からスケボー持ってきて滑ろうと言う事になった。

 

今では素敵なベッドタウンになってしまった八王子みなみ野に僕らはスケボーを持って移動した。

その当時、みなみ野は開発途中であった為、道路の片側半分が工事中だった。

僕らはその工事中の道路で遊び初めた。

カワさんとガイスがロングボードで滑っている横を、僕は猛プッシュからのオーリーで歩道に飛び乗って見せた。

カワさんとガイス、そして座って見ていたシマちゃんとミナミが声を上げた。

おぉ〜!すげ〜じゃん!

これがきっかけで彼ら全員がスタンダードなスケボーを買う事になったのは言うまでもない。

そしてスケボーに明け暮れる日々が始まったのである。

 

 

パチスロで勝ったお金でiMacとイラレを買いTシャツを作り始める

さてグラフィックデザイナーの道はどうなったかと言うと・・・

根っからのダメ人間の僕は一向にバイト代が貯まらずパソコンを買う事ができないでいた。

そりゃそうだ。

バイト代のほとんどをパチスロや飲み代、買い物に使っていたからね。

 

そんな時、僕はいつものようにパチスロを打っていると珍しく大当たり!

速攻でシマちゃんに代わってもらい多くメダルを出してもらう。

[※当時クランキーコンドルという機種があって外しという打ち方でボーナスタイムを長引かせて多くメダルを出す打ち方があった]

 

そしてその金で当時、発売されたばかりのボンダイブルーのiMacとアドビのデザインソフト、イラストレーターを買う事ができたのである。

きっかけはどうあれ念願のパソコンとプロユースのデザインソフトを手入れた僕はやっとグラフィックデザイナーのスタートラインに立ったのであった。

このとき既に21歳になっていた・・・

 

その後、次第にイラレの使い方も解って来たところでTシャツのデザインを始める。

イラレでデザインしたグラフィックをアイロンプリント用紙に印刷して作る単純なものだが、中学生の時に見たスケボーのグラフィクを真似して作ったTシャツは仲間達に好評だった。

こんなところでスケボーとグラフィックデザインが繋がると思っていなかった僕は更にデザインへの興味を深めて行った。

 

 

闇夜を暗躍し増殖と分裂を繰り返すスケートコミュニティ

暫くするとバイト仲間でもオーリーができないものからスケボーを辞めていった。

残ったのはシマちゃんとカワさんだけだった。

彼らは次々とトリックをマスターして行き、特にカワさんはキックフリップやヒールフリップ、グラインドもできるようになった。

一番年上なのに目覚ましいスピードで成長していくカワさんには驚きだった。

 

そんな僕らは近隣のスケボースポットを夜な夜な巡るようになる。

闇夜に暗躍するスケートボーダーとなった僕らは各スポットで新たな仲間を増やしていった。

 

八王子みなみ野では道路が開通した為、僕らは駅前のロータリーに移り滑るようになる。

ここにはフラットランドが得意なカズくんと、キックフリップで縦コーンを飛び越えるジンちゃん、ハードフリップが得意なヒロさんが新たな仲間として加わった。

 

南大沢駅のロータリーに移動すると僕の幼馴染のノリとノッチとクマがいた。

彼らは南大沢がホームグランドというわではないが、好んでこのスポットによく出没していた。

 

そして少し足を伸ばし日野市のスポーツ公園にいくと、新聞奨学生の帝京大生サイトウくんと、明星大生のカトウくんがいた。

特にサイトウくんはとてもテクニカルな滑りをする奴で僕は彼の家に遊びに行くほど仲良くなった。

 

そしてもう一つ足を伸ばすと、あきる台公園がある。

ここは当時、夜でも駐車場が空いていた為、たくさんのスケーターがスケボーをしに夜な夜なやってきた。

90年代後半〜00年代前半にはスケートビデオにも登場するスポットだった。

ここでは特に印象深いのが渋谷の有名スケボーショップ「アークティーズ」スタッフでBMXライダー、トムさんだ。

トムさんは結構年上だと記憶しているが、とにかくダイナミックさが持ち味のライダーだった。

 

雨の日は甲州街道の富士銀行の前のアーケード下で滑ったり、多摩境駅のロータリーの地下で滑ったりした。

時にはプロスケーターとも滑る機会があり大いに僕らに刺激を与えてくれた。

 

そんな感じで僕らは雨のも冬の寒い日も、天候を選ばず毎晩狂ったようにスケボーに明け暮れていた。

 

続く・・・

 

 

前回までの話し

Ready Skater One【昭和ノスタルジー〜小学生編〜】

Ready Skater Two【平成よこんにちわ〜中学生編〜】

Ready Skater Three【オレたちの90s〜高校生編〜】

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